スポンジ会計士の「かもしれない」日記

「かもしれない」という考え方で、楽になる。前向きになる。ちょっとだけ世界の見え方が変わる。

ネガティブな意味での「見られてるよ」は気にしなくていいのかもしれない。

この厳しい現代社会で生きていると、

次のような厳しいお言葉が聞こえてきます。

「その人の本質は、人の話を○○しながらで聞いちゃうとか、遅刻しちゃうなど、細かい言動に現れるよね

「いつも誰かから見られてると思って行動しなければならない」

などです。

 

確かにその通りだと思います。

これはお互いが思いやりを持って働いたりするために必要な意識かと思います。

 

と、
頭ではちゃんと理解できるのですが、

 

一方で

「なんだかなあ…」

と僕の心は囁きます。

 

この違和感は一体なんなんだろう

と、ここ数日悩んでしまったのですが、

少しわかってきた気がします。


上記、
現れるよね、見られてるよね、
というのは、


いずれも、人のネガティブな面が主語になっているのではないでしょうか。

 

つまり、上記を意識して生きるということは、

他人からネガティブな悪い評価を受けないように、気を付けながら顔色を伺いながら生きる

ということにつながりかねない気がなんとなくして、違和感を覚えているのだと思います。

 

もちろん仕事、特にお客様とか相手だと

このようなことは意識しないといけないんでしょうが、

本質的な観点では、

他人の目を気にして日々生きるというのは、

自分の幸福度が他人によって左右されるような気がしていて、本当に息苦しいというか、辛いです。


だから、
現れるよね、見られてるよね、
というのは、
個人的にはあんまり好きな物事の考え方ではないかもしれないです。

 

でも、言いたいことはわかる。実現したいことはわかる。

 

どうすればいいんでしょうか。

 

やっぱり
ネガティブな面が現れるよね、
ネガティブな面って常に見られてるよね、

ではなく、

ちょっと喜ばれることしたり、
ちょっと一緒に楽しくしたりすることで、
「なんかよーわからんけど一緒にいるの面白いな」って思われるようにしたいよね、

という言葉に置き換えるのが良いのかなぁと思います。

 

こっちの言葉だと、
他人の顔色を…的な感じもなく、
なんとなく自発的にやれそうで息苦しくないです。

 

特に、社内のメンバーに対してであれば、
この言葉を意識し合った方がはるかに良い気がします。

 

考えてみると、

現れるよね、見られてるよね、

という目線で同僚を見ると、

社会経験や役職関係なく、けっこうみんなやらかしてるなと思います(笑)

mtg遅れる、頼んだこと忘れる、なめた口を聞く、人の話を聞くときパソコンいじる、そこで?wというポイントでイラッとする

などなど、

けっこうみんなひどいもんだと思います笑
(あ、もちろん僕もゆとりなのでけっこうやらかしてると思います。。)


でも、僕はあんまり今の職場のメンバーに大きな不満がないです。

なぜなら、
そんなやらかしてることを忘れるくらい、

勉強になる示唆をくれたり、
ロジカルやなーと感心する意見をくれたり、
そんなの知ってるの?すごいなーということを教えてくれたり、
お願いしたことしれっと終わらせてくれていたり、

色んなことをしてもらってるからです。

 

究極、
仕事の合間に、あるいはミーティングのちょっとしたときに、なんで面白いのかよくわからないことで笑い合ったりする

 

という、
仕事のバリューに全く関係ないはずに思えることでも、
何回かともにそれを経験させてもらえると、

 

なんかよーわからんけど楽しいな、頑張ろうかな、

と思うことができ、

仮にやらかされても、

よっぽどのやらかしじゃない限り、どーでもよくなるというか、
次気を付けてもらえればいいよね
というか、
まあ次とかも別にいいや、楽しければ。

となる気がします。

 

 

要するに、

「見られてる」という、

なんとなく縛られているような基準で生きるより、

 

「なんかお互い一緒に働きたいなーって思えるようなギブ・アンド・テイクしようよ」という、

自由で自発的でなんとなくポジティブな考えに沿って生きていく、仕事をしていく

 

方が幸せなんじゃない?ということです。

 

今回はそんなところで。

 

ありがとうございました。

 

 

 

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